今回の記事では
- 元中日ドラゴンズのピッチャー
- 「郭源治」(かく げんじ)と
- 当時の闘将「星野仙一」の
- 現役時代のエピソードが
- 感動的だった
ので記事にまとめていきます。
その内容が
- 「郭源治」が現役時代
- シーズン中に、台湾の弟が
- 交通事故に遭い
- 天国に旅立ったとき
- 星野仙一が郭源治に
- かけたの言葉に
- 強い絆を感じた
さて、その内容とは一体どんなものだったのでしょうか?
それでは本題へ入って行きます。
郭源治はこんな人
台湾には兵役があり、兵役終了後に来日しました。
- 貧しい家庭環境で育ち
- 中日と契約後
- 日本へ来日した時
- 所持金は数千円
- 荷物も風呂敷包みひとつ
だったそうです。
- 契約金の1,250万円は
- 半額を両親にあげ
- 台北で家族に
- マンションを購入してあげた
郭源治は1981年(25歳)に中日に入団しました。
来日当初は言葉が通じないストレスとの闘いだったそうです。
台湾より複雑なサインプレーの説明が聞き取れず、打者に集中できずノイローゼになりかけたようです。
日本の食事も口に合わず、辛かったようです。
生野菜と揚げ物、焼肉くらいしか、食べられなかったみたいです。
寮の台所を借りて自炊したこともあったとか。
当時「星野仙一」は、まだ現役でした。
- 監督に就任すると
- 「郭源治」は守護神として
- 大活躍しました
- 2年連続でセーブ王
郭源治の弟が台湾で車を運転中、追突されて頭を強打し意識不明の重体に…
その時、郭源治は西宮球場にいました。
- 一刻も早く帰国して
- 弟に会いたかったが…
- 当時のプロ野球界には
- 厳しいルールがありました
「球宴を欠場した選手は、1週間再開した公式戦に出場できない」
という過酷なルールが!
郭源治という「抑えの切り札」の欠場は考えられなかったそうです。
試合後、体一つで台湾に帰国。
3日3晩ほとんど寝ずに付き添ったそうです。
バカヤロウ。
早く目を覚ませよ!
と弟に向かって叫んだ郭源治。
小さいころはキャッチボールをして遊んだ、仲の良い弟…
引退後は中華料理店を開いて、弟と一緒に店を切り盛りする計画を立てていたそうです。
悲しかった、とてもマウンドで投げられる気持ちではない。
だけどオレはプロ野球選手!
試合に出れば、全力を尽くさなければならない。
源治、行けるな!
行けるか?
ではなく…行けるなと!
郭源治は即答した。
ハイ、行けます!
きょうは弟が天国で見ていてくれる。
気の抜いたボールは 1球も投げられなかった。
背番号は涙ぐんでいた。
星野仙一氏は言った。
つらいのは、オレが一番良く知っている。
でも源治はウチの抑え。
あの場面は源治しかいない。
そう言った「星野仙一」の目も潤んでいたという。
- 弟が目を覚まさないまま帰国後の翌日、弟の訃報が入った。
郭源治は一人でむせび泣いたという。
- 郭源治の活躍で
- 首位となったドラゴンズは
- 6年ぶりに
- セ・リーグを制覇しています
優勝の瞬間「郭源治」はマウンドで雄たけびをあげ、胴上げ投手となりました。
将来、弟と台湾料理の店を開く約束をしていました。
そのため弟は料理人として修行を始めていたそうです。
弟との約束通り
- 現役引退後の2001年(45歳)
- 地元名古屋で
- レストラン「郭源治 台南担仔麺」を開店
- 2013年(57歳)
- 12年間、営業してきた
- レストラン「台南担仔麺」を閉店
台湾プロ野球の初代首席顧問に専念するために、閉店したとの可能性が高いと見られています。
- しかし翌年の2014年(58歳)
- 台湾プロ野球の顧問を辞任
- そして2018年(62歳)
- 東北楽天ゴールデンイーグルス
- 春季キャンプの研修コーチを務めました
星野仙一はこんな人
ドラゴンズが一番輝いていた時代は、この時代だったと思う。
乱闘も試合の一部かと思うほど、闘志を剥き出しにする男達の集団でした。
先頭で引っ張るのが「闘将・星野仙一」
星野監督時代が、ドラゴンズが一番輝いていた時代として語り継がれています。
郭源治と星野仙一の強い絆
2018年、星野仙一氏が膵臓がんが原因で天国に旅立たれたことが発表されました。
70歳でした。
突然の訃報に驚きと悲しみが広がる中、郭源治の故郷の台湾でもトップニュースとなり、中日時代に指導を受けた郭源治氏がコメントしています。
星野さんは僕に、とても大きな影響を与えてくれた方。
まさしく野球人生の恩師です。
とコメントを残していました。
引退してもなお、師弟としての関係性以上に人間「星野仙一」と「郭源治」の強い絆を感じます。
星野仙一の言葉
- 1988年:郭32歳の時、弟が交通事故で天国へ旅立った時に「星野仙一」がかけた言葉
源治、空を見てみろ。
弟が見ているぞ!
とマウンドで声をかけ、励ましたそうです。
その言葉に奮い立った郭源治は怒涛の活躍で、リーグ優勝の原動力となりました。
その結果、セ・リーグMVPにも選出されています。
2013年には、アジアシリーズで楽天を率いて台湾を訪れた星野仙一は、持病の腰痛に耐えながら移動していたそうです。
その時、台湾プロ野球の顧問を務めていた郭源治は、星野仙一の台湾滞在を全面的にサポートしていたといいます。
郭源治は裏方として恩師「星野仙」の最後の国際試合を支えていました。
星野仙一氏の帰国後、台湾ではウインターリーグが開催され、台湾プロ野球選抜の監督となった郭源治は背番号「77」を付けて試合に臨んだとのこと。
恩師の背番号を背負って共に戦っていたんですね。
まとめ
- 貧しい家庭環境から
- 這い上がり
- 足が痙攣しても
- 投球をやめなかった!
ハングリーさが前面に出ていた投手「郭源治」
恩師「星野仙一」に信頼を寄せていたからこそ弟の訃報の時、心が震えあの場面で投球することが出来たんでしょう。
祖国、台湾にもアツい想いがあり日本への帰化については、台湾への愛着などから非常に悩んだそうです。
台湾では反対意見も多かったそうですね。
これから日本で暮らしていく子供の幸せを第一に考えたそうです。
中日退団後は「母国リーグ」の統一ライオンズに入団しました。
台湾生まれでありながら、登録上は外国人になるという複雑な環境に置かれてしまいました。
意識する事はない。
台湾は産んでくれたお母さんであり、日本は育ててくれたお父さん。
どちらも必要だし、どちらかを選ぶ事は出来ない。
もしあなたは何人?
と聞かれたら『野球人』と答えます!
と当時のインタビューに答えています。
今回はこの内容で調査・解説しました。
【郭源治と星野仙一の絆がスゴイ!郭の弟が事故の時にかけた言葉とは?】
- 郭源治はこんな人
- 星野仙一はこんな人
- 郭源治と星野仙一の強い絆
- 星野仙一の言葉
以上で終了です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう!